ぼくのなつやすみ【12日目】
12月1日 火曜日
今朝、9時に起床した。
トーストにピーナッツバターを塗り、牛乳と一緒に流し込む。
今日は休みだ。と言っても、無能マネージャー様がシフト表を組んでいないので、いつバイトが入るか分からない。明日が休みなのかどうかも分からないのはストレスになる。急に入れと言われても気怠いだけだ。もちろんお金は欲しいので頼まれた仕事は断らないが。。。
もう12月だ。この前デレステがリリースされた気がするが、あれも9月の話。時間が経つのは早い。
12月といえば誕生月でもあり、クリスマスもあるということで、小さい時にはワクワクした。小学6年以降、クリスマスの日に早起きしてプレ ゼントを開封するということは無くなり、子供の無邪気な心を失ったのだろう。今までは楽しみで夜も眠れなかったのが、突然冷めてしまったような気持ちは自分でもなんとなくショックだ。
俺は2歳の時に日本に移住した。生まれはオーストラリアの田舎町で、スーパーに行くのに数時間のドライブが必要だったそうだ。
住むことになったのは宮崎。なぜここを選んだのかは、母の育った場所であり、母サイドの祖父母から授かった家もあったからだ。かなりデカい一軒家で、自慢したくなるほどに土地も部屋数も多かった。
場所は宮崎市の中心部。田舎だが、それでも宮崎県の中では栄えている場所だ。俺は宮崎に来た後、近所のS保育園に通うことになる。
当時2歳、その後3年ほどで日本語を話せるようになるんだから子供の吸収力の凄さには驚かされる。
ちなみに保育園での出来事はほとんど覚えていない。
去年、S保育園は潰れたそうだ。少子化の影響だろうか。これで職を失った保育士さん達はどうなるのだろうか。
職を探す場合、持続可能性も考えなければならないと思う。例えばだが、漁師になるのはアウトだと個人的に思う。魚は捕獲量が毎年減っている、魚が地球から減っているのだ。そしていつの日か、捕獲ストップを宣言される日が来るかもしれないということだ。厳しい現実である。
2003年、俺は小学1年生になる。
当時はベイブレードと金色のガッシュベル、デュエルマスターズが流行っていた。
友達のT君の家でゲームキューブで遊んだのをよく覚えている。
俺はゲームボーイアドバンスSPを祖父に買ってもらい、初めてプレイしたゲームはルビーだった。当時の流行りだった。祖父に買ってもらった理由は親が買ってくれなかったからだ。
「⚪︎⚪︎買って!みんなも持ってるよ!」と母におねだりし、「みんなが持ってるわけないじゃない!」と返されるのはテンプレだった。
買ってもらえない子は絶対に孤立化する。子を持つならそれくらいの出費は覚悟しろ。
この年はサッカーを始めたが、すぐにやめた。走る運動は嫌いだった。
親は俺が「やってみたい」と言う事に反対する事は無い。
こんなダメな息子になってしまい、本当に親不孝だなと思う。
この時の俺はとりあえずルールに沿って生きているだけだった。
学校に行き、出された宿題をやって早寝早起き。普通の小学1年生の生活だろう。
先生が妊娠するとかで、新しく来た先生がBBAだったのを覚えている。あの時は最悪だった。
2004年、小学2年生。担任はI先生。
この年から小学生ながら、ドン底で生き始める事になる。
俺は宿題を全くしない生徒だった。居残りにさせられたが、関係なしに毎日宿題を放り投げて遊びまくる日々。親には「今日は宿題無い」と毎日言っていた。
俺は宿題をしないだけでなく、授業も聞かずにふざけていた。笑いを取り、注目を浴びたかった。目立ちたかったのだ。
当然、学校から親に連絡があり、俺はお仕置きを受けることになる。
近所にあった『くもん』に行くことになった。
くもんの宿題は真面目にやったが、特に学校での態度の変化は無いと判断されたらしく、1年も経たずにやめることになる。
この年に親友だったS君が引っ越した。悲しすぎる。
誕生日にポケモンのエメラルドを買ってもらったのは今でも記憶に新しい。
2005年、小学3年生。
この年も俺は不真面目だった。
ムシキングとたまごっちの大ブーム。学校に持ち込むのは禁止だが、そんなこと関係無しに持ち込んでいた。
なぜ宿題をしなかったのかは今の俺には分からない。勉強しないとこの先生き残れないという現実味が無かったのだろう。
この時に同じクラスだったK君と仲良くなる。K君とはこの先長い付き合いとなる。
K君はテニスをしていて、それに惹かれて俺もテニスを始めた。
小3の時にクラスにいる他の数人も結構長い付き合いとなる。
後日書く中学編で登場するかもしれない。
2006年、小学4年。
担任は2年の時と同じ人で絶望だ。厳しい人だった。
今思えば、理にかなっている良い先生だったなぁと思っている。小学生は呑気だ。
この年はDSを買ってもらい、ダイヤモンドパールの発売年でもあった。
発売後は気が狂ったようにプレイした。
改造(PAR)デビューもこの年で、デオキシスやら100lvポケモンを作って興奮していた。
この頃が一番ポケモンを楽しめていたと思う。
チャレンジ⚪︎年生を始めたが、あれは確実に溜める。やらない方がいい。
10歳の誕生日にディズニーランドに連れて行ってもらったのを覚えている。
その日は平日、しかも雪が降っていたこともあって、どのアトラクションもガラガラだった。
しかしディズニーランドは飛行機の乗り継ぎのついでだった。この年は家族でオーストラリアの方に顔出しに行った。
従姉妹や親戚に久しぶりに会うのは新鮮で、海外がどんな所なのかを少しでも知ることができた。たまごっちが世界中で流行っているというのには驚いた。
2007年、小学5年。
この年は濃い1年だった。
担任は初の男教師、厳しいのかと思っていたが、史上最高に緩く、宿題も少なかった。小学校で宿題が少ないのはレアケースだろう。最高だった。
俺はこの頃からゲームに没頭するようになった。ほぼ毎日を保健室で過ごし、授業に行くのを嫌がった。それはただ面倒だったからだ。大した理由は無い。
1度、親は俺を精神科に連れて行った。もちろん問題は無かったが、それほど心配だったのだろう。しかし俺は親のことなど気にせずに、自分のやりたいことばかりしていた。
くもんに再び通わされるが、半年ほどでやめた。正直、あそこは行く意味無い。一番アホに効果があるのは1:1か少人数での授業だと、今では分かる。
この年の夏、俺は人生で初めてポケモンの公式イベントに参加した。
ポケモンリーグ2007という大会に応募し、当選した。
全国大会の予選開催地の一つである福岡。
会場は福岡Yahooドームで、親戚の家に泊めてもらって行くことになった。
小学生が一人で飛行機に乗るのは不安しかなかったが、アシスタントさんが案内してくれたのを覚えている。
ルールは見せ合い無し4vs4のダブルバトル。
当然俺は小学生、努力値も個体値も知らないどころか、物理と特殊の違いも把握していなかった。
使用パーティは
先発でゲンガーとドータクンを出し、両方で催眠術をするという戦術だった。
これは小学生ながら思いついた「相手に何をされたら嫌か」という発想から生まれた戦術だ。
人数は数百人はいただろう。会場はいっぱいだった。
予選を4勝0敗で通過し、32人が残るトーナメントまで残ることになった。
本戦のトーナメントで1回戦で敗退してしまう俺氏。
ボコボコにされ、悔いが無いバトル。相手の方が知識が高いのは明らかだった。
相手PTはクロバット、ラティオス、メタグロス@1(裏も見せてもらえないほどボコボコにされた)
クロバットで催眠術、ラティオスでビートしながら、最後にメタグロスで大爆発を見せつけられて完敗。
相手は小学生だが「デュフフフwww」系のオタクだった。対戦中に放った「こちらのクロバットの方が素早さが高いのだよ」というセリフは今でも覚えている。
この時に購入したDSliteのカバーは今でも付けている。
この年はWiiやスマブラXの発売もあって、友人宅でゲームをするのが楽しくてたまらなかった。初音ミクや、男女、遊戯王MADやマリオシーケンサも見始めていた。深夜アニメには興味無かったが、銀魂やNARUTO、リボーンのアニメを見たり漫画を買い始めていた。小さい頃からオタク属性があったのだろう。
いつの日か先生に「お前将来どうすっとや?」と言われ、「H中学校に行きます」と返し、鼻で笑われたのは鮮明に覚えている。
宿題もしない、授業も出ない、そんな俺は舐めていた、受験という名の絶壁を。
2008年、俺は小学6年生になる。
担任はT先生。BBA。学校1厳しいとされている先生だった。
友達グループの中でモンスターハンター2Gが流行っていて、俺だけPSPを買ってもらえなかったのは悲しかった。周りにポケモンをやっている人なんていなかったが、俺はエメラルドのバトルフロンティアなどをひたすら攻略していた。
遊戯王ゴールドシリーズ第一弾の発売もあり、紙束デッキがグッドスタッフになったのも覚えている。
他に、ジャンプを読み始める。ひそかにTo LOVEるを楽しみにしていた。これは絶対に学校の人間にバレてはならなかった。
私立の中学受験。俺には目標があった。しかし、それを叶えるのは大変なんだ、と気が付いたのは小5の終盤だった。
なぜか俺に地元の公立中学に行くという考えは無かった。
小さい時から「俺はこのH中に行くんだ」という流があった。自動的にそうなるんだ、という感じで思っていた。だから受験のことも考えていなかった。
塾に行くことになった。勉強が嫌いで、宿題もやりたくなかった。塾をサボろうとする事も多かった。でも塾の先生は真剣に俺の事を考えてくれていた。
小学1年〜5年までまともに勉強をしたことがなく、急に受験をするのは厳しい話だった。漢字も全くわからず、算数や社会もできない、学校のテストでもボロボロだ。
塾は1回2時間で、週2で通った。そんなのは屁でもなかった。
一番きつかったのは夏休みと冬休みだ。
午前8時から始まり、午後3時まで塾。大量の宿題が出て、漢字の小テストが毎日あった。漢字の出来ない俺にとっては最悪だった。
小学生には過酷すぎると今でも思う。辛くて泣いた日もあった。
漢字のテストの再試を避けるために何度もカンニングをした。バレてキツイお叱りを受ける事もあった。それでもカンニングはやめなかったが。
塾に通い、自分が少しずつ力をつけている事は明らかだった。底辺だった俺が、学校内で尊敬されるほどに学力を付けるのは気持ちが良かった。
受験の日。同じ小学校の生徒で、H中学を志望校とする生徒は15人ほどいた。
算数と理科はかなり手応えがあったが、社会と国語は死んでいたのを覚えている。
2日後に家に封筒が届く。合格通知だ。
鼻で笑われるほどアホだった生徒が、受験成功。教師達や、生徒からの祝福の声は気持ちよすぎた。
普段は厳しい塾の先生におめでとうと言われた時も本当に嬉しかった。
所詮は中学受験、まともに授業を受けていれば誰でも合格できる難易度だったとは思うが、俺にとっては高いハードルだった。
この時は自分の事を誇りに思った。
1月、合格後にすぐに塾をやめた。
やっと自由の身になれた。
中学に入るということで、これまで続けていたテニスをやめることになる。
あの頃に遊んだ友達はもう帰ってこない。最高の時間だった。当時は「学校嫌だ、つまらない」とか言っていたが、小学生に戻りたい。人間、外の世界から自分の世界を見なければ分からないことがある。世界は広い。
結局、塾の支えがなければアホはアホのままだ。
その後、俺はまた底辺を彷徨い続けることとなる。
中学編は改めて書こう。中学の方が鮮明に覚えていることも多いはずだ。
この記事を夜になるまで書いた。
つまり、日記となる内容は特にない。
とりあえず、昼食に唐揚げを食べた。揚げたてで美味い。
夕食にも唐揚げを食べた。揚げたてではないが美味い。
JKに英語の翻訳を頼まれてるのでらいかーヒーローは行ってきます。
BYE✋^ー^